長い引用ですけど、易しい文章なので読んでください。
大澤 ・・・・ある村で、イエスたち一行がマリアとマルタという姉妹の家に招かれた。で、イエスが来たというので、姉のマルタは一生懸命、接待の準備をしていた。ところが、妹のマリアのほうはイエスの話をただ聞いているだけ。マルタはだんだん腹が立ってきて、イエスに「マリアは私をぜんぜん手伝おうとしない」「一言、マリアに言ってやってください」と告げ口した。
そうしたらイエスは、マルタに「お前はどうでもいいことばっかり気にしている」「大事なことは一つだけだ、マリアはいいほうをとったのだ」などと言うわけです。あたかもマルタはよくないほうをとって、マリアはいいほうをとったかのように。
一般的な解釈だと、マルタとマリアの姉妹は、日常のプラクティカルな生活を宗教的な観想的な生活とをそれぞれ寓話的に表現していて、イエスの話に集中していたマリアが後者で、マルタのほうは日常の瑣末なことに気をとられていた、とされています。でも、状況をすなおに見れば、こんな面倒な解釈をする必要はない。ここでイエスが言っていることは、はっきり言って間違っているとぼくは思います。
・・・マリアはたぶんかわいい子なんですよ。で、マルタがかわいいマリアをちょっといじめるようなことを言うから、イエスは「いいんだよ、この子はこれで」と言っただけ(笑)。どうですか?
橋爪 マルタは炊事場で準備したり、水を汲んできたり、掃除していていることを喜びとしてやっていればよかった。そうじゃなくて、内心、マリアのほうがいいと思っていたんだよ。しかもそれをマリアに対する怒りとしてぶつけたんだ。もしも、イエスを本当に歓迎しているんだったら、マリアの役割とマルタの役割が両方必要だと理解できるから、自分の役割に満足したし、そういうマリアに対する嫉妬の感情が出てくるはずもない。だから怒られた。
大澤 うーん、そうなのかもしれませんが、中世の大神学者マイスター・エックハルトが、この部分についてかなり立ち入った考察をしていて、それを読むと、彼もぼくと同じ違和感をもっていたことがわかります。もっとも、その後の対応が、ぼくとエックハルトは正反対なんですが。ぼくは単純に、イエスは人間的な誤りをしてしまったと理解した。イエスが間違えることなど思いもしないエックハルトは、ほとんど何をいっているのかわからないような、強引な解釈をしています。ほんとうはマルタがよいほうをとったのだ、とかなんとか。
・・・・(中略)・・・・
橋爪 つまりね、人間には神に愛される人と愛されない人がいる。いていいの。それは受け入れなければならない。
だって、そんなことを言えば、健康の人とか、天才とそうじゃない人とか、人間はみんな違いがあるでしょ。・・・・
そして、人間は必ず、自分より愛されている人を誰か発見するし、自分より愛されていない誰かを発見する。これをいちいち、嫉妬の感情とか、神に対する怒りとして表明していたら、一神教は成立しないんですよ。・・・・
橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』講談社現代新書
ボクから言わせると
マルタみたいな人もマリアみたいな人もイエスみたいな人も、この世の中にたくさんいます。橋爪氏の言うことは、テキストの状況から少しずれている気がします。マリアは、どちらかというと利己的で、マルタは、あえて言えばヒステリー的です。イエスは、(宗教的ではなく)宗教家的です。他人の感情に過剰に対応しないのです。イエスは、・・の「は」はインターセンテンス(本来はインターパーソナル?)。一人失笑。暑いし、スゲー暇です。
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